一章 二十七話





 訓練所の間を七つ通過することが出来たが、出てくる妖魔の強さが急に上がった気がするほど強い。なるべく、麗華に不安を与えない様にしたかったが、なり振りかまっていられないぐらいの強さで、術を使う早さが追いつかない。なんとか七つ目を通過できたが、これからが大変だ。
 使える武器が無い為どうしても術に頼りきりになる。術の使いすぎの疲労感で足が重く息が切れる。真司は先ほど啖呵を切った手前ばつの悪そうな顔をしていた。

 先に進もうとする真司に麗華が休憩を勧めて、次の間に繋がる廊下に座り込んで休憩することになった。疲れが出ている、真司を見てこれからの対策を考える。
 元々何の準備もない状態で、麗華を守りながら戦っているので余計に無理がかかる。なるべく隅に居て邪魔にならない様にしていたが、出てくるモノも数が増えているらしく、先ほどは端に居たら真司が右に走れとか左に走れとか指示を受けて逃げまどう場面があった。結局真司の背に守られる形に落ち着いたが、麗華が傍にいると動き辛そうだった。訓練の間に入らないで外で待ちたいが、扉は自動的に閉まり出入りが出来なくなる。
 麗華も見えて居れば自分で逃げる事が出来るのに、見えないと言うのは不便だ。少しでも真司の負担を減らすにはどうしたらいいのだろう。

 ふと思い出されたのは、金子家に行くまでに車で優斗としていた会話だ。藤森家の者なら少量でも体内に術力を回復させる分質があると言う。一応麗華にもその分質があるはずだ。これなら、麗華でも少しは真司の助けを出来るかもしれない。麗華は意を決して真司に提案する事にした。
「ねぇ、真司君。私の血で良ければ少し飲んでみる?」
 真司は麗華から出た言葉が信じられなく反応に一瞬間があった。それから、大げさにため息を付いて馬鹿にした様に鼻で笑う。
「ふん。あんた馬鹿だろ。こんなところで、血を流したらそれに反応して妖魔があんたを集中攻撃するだろ。そもそもあんたに流れる力なんて雀の涙程度もないんだから、力を回復させるまで血を飲んだとたら、出血多量で死ぬよ。それに吸血鬼じゃないんだし、そんなに大量に血を飲んだら僕が気持ち悪くなる。論外もいいところだ」
「でも、試してみる価値あるかもよ。少しでも回復出来るならそれに越したことはないじゃない。傷口だってちょっと指先切るぐらいならすぐに血も止まるよ」
「その程度じゃ回復なんかしない。やる価値もないね」
「疲れている時に一口でも水飲めば、少しは疲れがとれる感じがするでしょ。それと同じで」
「逆だろ。疲れている時に一滴しか水飲めなかったら余計に飲みたくなる。歯止めがきかなくなったら、あんたどうなるか分かってんの」
「……干からびるまで血をすするとか?」
「だから。吸血鬼じゃないって言ってんだろ。頭悪いなぁ」
「じゃあ、どうなるの? 死んだりする?」
「死にはしない。だけど、それは……。あー……言いたくない」
「なにそれ。自分で言っといて言いたくないって」
「うるさい。もう十分休憩したから次に行くよ!」
 真司はそれ以上話す気はないと示すように立ち上がり仕草で麗華を急かす。
「でも、大丈夫? 術力を使いきると飢餓状態になるって言ってなかった?」
「あんたに心配されなくても、自分で調節できる。愚図愚図してると置いてくよ」
 真司に続いて歩き始めるが本当に大丈夫だろうかと心配になって来る。平然を装っているが、額には汗が滲んでいる。それにやはり、自分に出来る手助けといえば、雀の涙程度だとしても力を与える事ぐらいだ。真司が麗華を守りながら一緒に居てくれるのも、藤森家の血族だからなのだからその役割を果たすべきだ。

「ねぇ、真司君って水仕事とかする?」
「はぁ? なんで水仕事がでてくるんだよ」
 怪訝に思っている真司を横に麗華は自分の手を見ながら話を続ける。
「私って、ほら今お父さんも帰ってきていないからほぼ一人暮らしみたいなもんでしょ。部屋の掃除とか茶碗洗いって自分でやるんだよ。一人分だから量が少ないんだけどさ。ここに来る前に、家を一週間ぐらい空けるからって部屋中ピッカピカに掃除したの。家にゴム手が無かったから素手でやってたら、洗剤に負けてささくれが結構出来たんだよね」
 ほら、と言いながら麗華は手の荒れ様を真司に見せる。ここ二、三日水仕事をしていないので、少し治ってきているがハンドクリームなどでケアをしていない手は荒れていた。真司は興味なさそうにため息をつく。
「だから?」
「見てみてここ。爪の端っこ。爪が少し割れたようになってんじゃん。これ擦れるとチクチクして痛いんだよね。だからここは一気に!」
 麗華は少し割れた爪の端を、無理矢理勢いよく引きちぎった。肉に付いていた爪の部分を無理に引きちぎった為に、予想以上深く爪と肉が剥げた。痛みに顔を少しゆがめ、爪の間から血がじわじわ滲み出てきた指を真司の方に差し出す。
「このままほっておくと、この血どこまで流れるかな? 結構痛いから、止血しないと止まらないかも。このままここで血を床に付けても大丈夫かな。藤森家の血って妖魔を引きつけるとか言ってなかった?」
 麗華は脅すように軽く微笑む。真司がこの血を飲んで血の流れを止めなければ、これから訓練の間で麗華に攻撃が集中する事になる。真司は麗華の行動に絶句して舌打ちする。
「あんた、自分が何やったかわかってんのかよ!」
「うん。ささくれ取ったら血が出ちゃったの。あぁ、血が指をつたってきちゃった」
「さっき話した事理解してなかったのか。そこまで無謀な馬鹿だとは思わなかった!」
「理解してたよ。でも、真司君ばかりに負担をかけるよりは、ちょっとでも役に立ちたいじゃない。おしつけだって分かってるし、私の血が本当に効くかどうかもあやふやだけど、無いよりはいいと思う。歯止めが利かなくなった時はその時で、真司君が責任もってここから抜け出して藤森家まで私を届けてくれるならそれでいいよ」

 軽く笑い軽く言う麗華が憎らしい。麗華の血を見たときから、激しい飢えを感じ暴走しない様に必死に感情を抑制させている。それなのに、容易く歯止めが利かなくなった時はその時だと言う。飢えは欲望と似た感情をもたらし、歯止めが利かなくなると言う事は、己の欲望を男の本能のまま麗華にぶつける事になる。もし、そうなったら傷つくのは麗華だけでなく、正気に戻った真司も死にたくなるほど自責の念にかられる。
 その事態だけは、陥りたくないからわずかな血でもいらないと拒否したのだ。それなのに、事もあろうか自分から血を流して、飲まなければいけない様に脅しをかけてくるとは、自殺行為もいいところだ。
 細い指を伝う血を舐めてしまえば、この飢えも消えてなくなるし力も回復してこれからの戦いに備える事が出来るだろう。分かっていても、歯止めが利かなくなった時の事を恐れて動きが止まってしまう。

「……そりゃ、私の血を飲むのに抵抗在るのは分かるけど、ここは真司君も腹をくくってさ。一か八かでやってみようよ」
 戸惑っている理由を何か勘違いしている麗華が追い打ちをかけるように、真司の口元まで指を持ってくる。
 真司が大げさにため息を付き、中性的な綺麗な顔に小悪魔の様な笑みを浮かべた。
「僕はどうなってもしらないからね」

 真司は麗華の手を取ると、指を伝っていた血を味わうようにゆっくりと舌を這わせて指を口にくわえた。口の中で指から流れる血を味合うように転がし、血がもっと流れるように甘噛みをする。
 傷口に柔らかな舌が当たると痺れる様な刺激が指先を走る。真司の伏せがちの目が不意に合うと、自分が進めた行為はとてつもなく恥ずかしい事なのではないかと、今更自覚した。自分が言い出した手前、もう引くに引けない。顔に血が上り、早鐘を打ち始めた心臓に後もう少しで血が止まるから落ち着くようになだめる。
「ね、ねえ。ど、どう? 何か力が戻って来る感覚とかあるの? それともやっぱり効果なし?」
 居た堪れなくなり、真司に聞いてみるが彼は目を麗華に向けただけで何も答えない。軽く口元が笑い指を転がすようにもてあそんでいる。
「あ、あの真司君。爪から出る血ってわりと直ぐ止まるから、もう血出てないんじゃないの?」
 そういうと、血がもっと流れるように苦痛と感じない微妙な手加減で甘噛みして、柔らかな舌で指を包み込む。
「し、真司君!」
 遊ばれている気になり手に力を入れて離そうとするが真司が強く引き付けるので指が口から離れない。
 普段の真司なら、すぐに離してくれて嫌味の一つ言いそうなのに、いつもと違う。その様子に段々と恐くなってきた。本当に歯止めが利かない状態になってしまったのだろうか。
「真司君! ねぇ、真司君、真司君、指を離して!」
 何度か強く呼び掛けると、我に返ったように指から口を外した。真司はばつの悪そうな顔して視線を下に落とす。麗華は離された手を胸の前で握り、真司の様子をうかがう。

「……大丈夫?」
 自分を取り戻すように小さく息を吐いてから、困惑気味の麗華の方を向く。
「……あんたの血、妙な味がした」
「妙とは?」
「甘みがあった」
「甘み? 血って甘かったけ?」
「藤森家の血は蜜の様な独特の甘みがある。と言っても、僕が飲んだ事のある血は彰華と知華ぐらいだから、比べる者は少ないけど。あぁ、知華は彰華の妹。知華の血はうっすらと甘みがあったけど、不味いし力の戻りも悪いから緊急事態以外口に出来たモノじゃなかった。彰華の血は神華の血だから蜜のように甘くて、力もみなぎるけど少し癖があって好きではなかった」
 無意識に手を握る力が強くなる。真司が言おうとしている事を聞きたくないと思ってしまうのは、自分が特殊な存在だと思いたくないからかも知れない。藤森家の血族だけれども、妖魔や式神を見る力はないし、術が使える訳でもないから、心のどこかでは自分は不思議な世界とは関わりのない一般人だと思っていた。この華守市から離れてしまえば平凡な日常が戻って来ると思っていた。それなのに術者である真司から特殊な存在であると言われたら、もう普通の生活が送れない気がする。

「あんたの血、蜜のように甘いだけじゃなく、少量なのに力の戻りが速い。彰華の血以上に、僕にあっていた」
「そ、っそっか。それは、よ、良かった。真司君の力が戻ったなら喜ぶべきところよね。うん」
「そんなに血が濃いのに何で、術が見えないほど力が無い?」
「さぁ? 私に聞かれても、見えない物は見えないし……」
「本当に見えていないの? 本当は僕たちを見えているのに騙してるんじゃない?」
 真司の疑り深い目に、麗華は少したじろぐ。
「騙す必要が無いでしょ。もし、仮に見えて居たら、私は藤森家に会う前ずっとその力を持て余していたと思う。そこへ同じ力をもった一族の人に出会えたえら、この力の正体を聞いて自分だけが、不思議な力持っている訳じゃないって物凄く安心すると思うもの」
「確かにあんたと一番に最初に会った時は、全く力を持っていない様に見えた」
「でしょ。残念ながら全くないもの」
「本当に小さい時から無かったの?」
「小さい時から無かったよ。もしも見えて居たら、かすかにでも覚えているでしょ」
 そんな、記憶麗華には全くない。あるのは、普通に親子三人で生活していた記憶で、普通の人となんら変わりはない。

 ――泣かなくても大丈夫だよ。もう恐い思いをしない様に、お父さんが守ってあげよう。

 ふと、頭の中に父の姿が浮かんだ。あれはいつの事だっただろう。まだ幼稚園に入る前ぐらいの幼い頃、犬に追いかけられて泣いた時だっただろうか。
 光景は浮かぶけれども、父と何を話したかは断片的にしか思い出せない。

 ――麗華、いいかい。お父さんの言う事を良く聞きなさい。

泣きわめく麗華に父が何かを言い聞かせている。

 ――これは麗華とお父さんの秘密だから誰にも話してはいけない。桃華にもだ。秘密を守れるかい?

 幼い麗華は泣きながら頷く。そこで、父と何か約束を交わした。それは覚えているが、その内容が思い出せない。恐らく泣きわめく子供をなだめる為の些細な約束だったのだろう。
 だから、力の有無とは関係のない記憶だ。


「やっぱり、記憶にないから、小さい時から無かったんだよ」
「じゃあ、何でそんなに血が濃いんだ」
「知らないよ。あ、もしかして力ってなにか修行とかして身につけるモノだった?」
「まぁ、確かにちょっとした儀式は数年ごとにあるけれども、それを遣らなかったからって、全く見えないと言うのはあり得ない」
「そう言われても、見えないものは見えないから……」
「……何か誰かに呪詛でもかけられたとか」
「呪詛? それで見えなくなるモノなの?」
「一時的に、力を失う呪詛があると聞いた事がある。でもその呪詛はかなり難しいから普通の術者には出来ないし、一時的なものだから何年もかけるのは不可能だ」
「じゃあ、私に何処か不備があって、見えないし力が無いけど、その分血が濃くなったっていうのはどう?」
「あんたに不備があるって言うのは同意出来るけど、そのせいで力が濃くなったりするかな? 普通逆に、薄くなると思う」
「他に考えられる事……」

 後ろから軋む様な音が聞こえて麗華と真司が振り返ると、床が少しずつ霧の中に沈んでいた。
 ここで話している時間はもう僅かだ。二人は話し合いを一時止めて足元が霧の中に沈む前に先へ急ぐ事にした。


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2010.6.27

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